出雲ナンキンの歴史について



***日本金魚界の恩人、松井佳一博士について*** を追記しました。(2000.09.26)

  謎の金魚?


○ルーツを探る
                         
私が知り得た一番古い出雲ナンキンについての文章記述は、

「科学と趣味からみた金魚の研究」松井佳一著 弘道閣刊 
  (昭和10年6月25日発行 定価三円五十銭)のP122にある
『なんきん
 これは出雲地方のみにあって、同国宍道町の佐藤寛市氏が優品を飼育して、保存につとめている品種である。「らんちう」の原型に近いものであって、頭は小さく肉瘤はない、吻端が短く腹部は後方において膨れ、尾鰭は普通の状態で体に附着して居て三っ尾、四っ尾のみが淘汰飼育せられて居る。 体色は更紗で六鱗のものを標準型として居るが、別に人工的な調色は行っていない。』
とのものです。

 戦後の昭和38年、同じく松井佳一博士が保育社から発行した「カラーブックス34 金魚」には
『ナンキン Nankin,Gold-fish in IZUMO
 島根県宍道町を中心として保存されている品種で、ランチュウの原型にもっとも近い形をしている。頭は小さく肉瘤がない。吻端が短く腹部は後方にふくれ、尾は普通に付着している。体色は六鱗といって、からだは白く、各ひれと頭部が赤なのが標準色である。人工調色は行なわれていない。これは大きく成長する。』
とあり、親魚は大きくなることが書かれています。
                         
                           
 その後、同博士は昭和45年に保育社から発行の「標準原色図鑑全集/第17巻 熱帯魚 金魚」に、
『ナンキン Nankin,Gold-fish in IZUMO
  出雲(島根県)地方の一部に飼育されている品種で、ランチュウの原種のマルコの型が保存されている種である。体形は丸形であるが細長く、腹部は後部に向ってふくれている。頭は小さく、各ひれは短い。尾柄が長く、尾はランチュウと異なり、体軸に対して水平である。
 体色は六鱗(ろくりん)を標準としているが、人工調色は行なわれていないので、その出現率は少ない。白・赤色のものが多い。
 ナンキンの名の由来は不明である。
この金魚は出雲地方で古くから飼われていた。昭和2年に筆者が山陰旅行をしたとき、島根県宍道町の佐藤寛市が飼育していたのを知った。当時すでに絶滅にひんしていたものである。』
と書かれています。
                         
                          
 さらに、同博士は昭和47年に緑書房から発行された金魚大鑑では、
『ナンキン
明治年代より出雲地方に飼育せられた金魚で、ランチュウに似て丸型、短ひれの魚体であるが、頭は小さくランチュウの原型と考えられるものであるが、体はランチュウより細長く腹部が後方に膨れ尾の体軸に対する付き方が普通であるのが、大に異なる。文献に表現せられたものは、私の寡聞により見当たらないが、この体形の金魚は初期錦絵や絵本には、多く描かれている。体色は本来六鱗を理想としているが、人工調色は行なわないので甚だ稀である。』
 と記述され、明治時代から飼育されていること、文献に載っているものが見つからないこと、が書かれています。
                          
                          
 別の金魚研究家では長澤兵次郎氏が昭和59年にマリン企画から発行された「金魚のすべて」に、いずもなんきん振興会編集の「いずもなんきんに就いて」を引用して
『松江藩では寛延(1750)頃より城下に於て金魚の飼育が盛んとなり、品種の改良と選択、交配により他国に見られない出雲特有の優れた「出雲なんきん」を作り出した。
 松江藩主不昧公は金魚を愛し部屋の天井に硝子を張り、肱枕で金魚を眺められたとか、あるいは金魚の褪色(色変わり)に就いて藩士を他国に派遣してその秘法を会得させ、紋様(紅白斑)まで作られたと伝えられる。又旧藩時代には下級武士にこの魚の飼育を奨励し他国へ移出し家計の一助にと全家族で良魚の作製に熱中したと伝えられている。』
とあり、江戸時代に出雲ナンキンが作られたとあります。
                         
                         
 同様に、緑書房から出ているフィッシュマガジン1995年2月号の「第7回出雲なんきん愛好会品評大会優秀魚紹介」の記事には、出雲なんきん愛好会会報「出雲なんきん」第7号より として
『出雲なんきんの由来
 出雲藩でも寛延(1750)頃より城下にて金魚の飼育が盛んになり、年々品種の改良と選択交配により他国に見られない出雲特有の優れた「出雲なんきん」を作り出した。
 松江藩主不昧公は金魚を愛し部屋の天井に硝子を張り、月光で金魚を眺められたとか、或は金魚の褪色(色変わり)について藩士を他国に派遣して、その秘法を会得させ、紋様(紅白斑)まで作られたと伝えられている。
 また旧藩時代には下級武士にこの魚の飼育を奨励し、他国へ移出し家計の一助にと全家族で良魚の作出に熱中したと伝えられている。郷土で作出されたこの銘魚は、斯道の権威者である松井圭一博士もこの美魚種を認識され、推奨されている』
とほぼ同一の由来が書かれています。
                         
                         
 昭和57年に山陰中央新報社から発行された「島根県大百科事典」にも、中尾英一氏の記述で
『いずもナンキン 出雲ナンキン
 本種の古い文献等資料は皆無であり、由来は不明であるが、浮世絵等に描かれたマルコと呼ぶ背びれ欠除性、肥大性の原初的な形状の金魚が出雲地方で独自な観点から改良されたと推察されている。』
 とあります。
                       
江戸時代から飼育されていたことは、ほぼ間違い無いと思うのですが、残念なことに江戸時代の「出雲ナンキン」についての文献が見つかっていないようです。
江戸時代の「出雲ナンキン」の記述がある文献が発見されることを祈ります。
                          
                          
                          
 出雲ナンキンについて、皆さんのお手元の本(特に明治、大正時代発行のもの)に記述がありましたら、ぜひ教えて下さい。
 また、このホームページの内容について間違い等ございましたら、御指摘・御教授いただけると幸いです。
                         
                         
●引用が多く、読みにくくて申し訳ございません。金魚関係の本は、すでに絶版となっているものが多く、入手困難である点を考慮し、あえて出雲ナンキンに関する部分をほぼ全文引用しています。
『』でかこんだ部分が引用部分です。




○日本金魚界の恩人、松井佳一博士について

 松井佳一(まつい よしいち)博士は、まさしく「日本金魚界の父」と言うべき偉大な人物です。
金魚の遺伝に関する貴重な研究をされた事をはじめ、地方特有の金魚についての造詣もきわめて深く、出雲ナンキンも、松井博士がいなければ、とっくに絶滅していたかもしれません。
金魚に関する著作多数あり、ここに紹介した書物の多くも松井博士の著によるものです。

・松井博士の略歴
明治24年(1891年)2月、山口県富田町(現新南陽市)生まれ
昭和9年(1934年)論文「日本産金魚の遺伝学的研究 第一〜四報」(水産講習所研究報告第三十巻第一号)を発表。

 この論文で博士は、金魚の各品種の系統分離実験による各品種とフナとの交配により、金魚がフナの変種であることを証明し、さらに数百万尾のフナの養殖を行い、その稚魚、成魚を調査して現在のフナからは決して金魚は出現しない事を確認している。
 博士がこの論文の為に供試した金魚は約三百万尾だったという。
 同年、東大より農学博士号を授与される

昭和10年(1935年)「科学と趣味からみた金魚の研究」刊行。

 この本は、博士の大正3年(1914年)から昭和9年(1934年)までの実験、調査による研究を取りまとめた不朽の名著。いまだこの本を超える内容の金魚関係書物は出ていないと思います。

 メキシコ政府水産顧問、兵庫県水産試験場長を経て、財団法人日本真珠研究所長、近畿大学農学部教授。

昭和51年(1976年)4月17日心不全にて逝去。享年85歳



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