中尾英一氏の論文「出雲ナンキン」
(島根県立平田高等学校 研修第12号 別刷 昭和54年3月発行 より)

中尾英一さんの論文について

私が出雲ナンキンに興味をもってしばらくした頃、
『「出雲ナンキン」という題名の小冊子があるらしい』との情報がありました。
しかし、、、いくら捜しても見つからず、「幻の小冊子」となっていました。

2002年10月、偶然、この小冊子「出雲ナンキン」を手にすることが出来ました。
内容は「素晴らしい」につきます。
おそらく、今までに出た、そしてこれからも、、、
「出雲ナンキン」についてもっとも詳しく書かれた論文だと思います。
今回、中尾英一氏の御快諾をいただき、拙サイトにこの論文を転載することができました。

本当に嬉しいです。ありがとうございます。この場をお借りし、深く御礼申し上げます。

この論文の著作権は中尾英一氏にあります。論文内容の無断転載・引用は禁止します)
緑字はロムがつけた見出しです
(この論文の著作権は中尾英一氏にあります。論文内容の無断転載・引用は禁止します)
島根県立平田高等学校 研修第12号 別刷 昭和54年3月 

出雲ナンキン(島根新聞よりの転載)
中 尾 英 一


前文
かなり前のことであるが、昭和45年12月上旬に、「出雲ナンキン」の表題で、島根新聞(山陰中央新報の前身)に6回の連載をしたことがある。筆者は数年来、趣味をかねて、出雲地方に縁の深い飼養動物の飼育、調査を試みて来た。筆者が対象にしている出雲産飼養動物は4種であるが、これ等すべて、時代の流れの中で、消滅にむかいつつあると言えよう。その中で比較的安定しているのが出雲ナンキンで、かつ学術的にも最も興味深い存在と考えられる。

新聞は一面消耗品的であり、「出雲ナンキン」の記事も筆者の手元に、縮刷版として残るのみである。「研修」誌に、この拙文を転載してみたいと思う。なお、新聞紙上に出た図、写真は省略し、記述のみの転載とする。
(転載は、昭和45年12月1日、3日、4日、7日、8日、10日付の『島根新聞』7面より行った。)
**島根新聞への連載記事ここから**

「出雲ナンキン」
秋は金魚の鑑賞に適した季節である。時候として好適であるとともに、越冬を前に、この春ふ化したいわゆる当歳魚も褐色(色変わり)をへてかなり成長し、二歳魚、成魚も形態が充実し整う秋には、年間の仕上げとして各地で盛んに品評会、観賞会が催される。

出雲部すなわち島根県東部において、いわゆる高級種と称し金魚の趣味者が飼育鑑賞の対象とする品種は、一般にランチュウ、ナンキンの両種である。このうち前者は全国的に広く飼育されているが、後者は特産種としてこの地方に限定して認められ、さる10月11、12日には松江市内において恒例の秋季品評会が催された。なおランチュウの全国大会は11月3日、名古屋市においてであった。

ナンキンはこの地方にあってかなり古い歴史を有するが、これまで本種を扱った著述等資料は比較的少ない。筆者は生来飼養動物の飼育を好み種々手がけてみたが、本種については生家に以前からいたこともあり、子供の頃から飼育の機会をもって来た。ここで本種につき記述してみたい。***↑page top↑***


ナンキンの紹介
金魚の歴史の中で作出された多くの品種の中でナンキンは、系統上わが国産品種のうちでは、ランチュウや、すでに絶滅してしまったが、オオサカランチュウと近縁である。すなわちこれ等三種は共通の形態上の特色として、背鰭(びれ)を欠除し、背部は側面からみてわん曲性を示し、体型が肥満性で短縮して卵型を成す点が認められる。

この形態上の特色は、たとえばこれ等三種と同じくわが国産の他品種ジキン、トサキン、ヤマガタキンギョ等の有背鰭性等形態とは異質であり、明らかに系統を異にすることを示している。


金魚学並びに真珠学の権威松井佳一氏は、1930年の論文「金魚ノ品種ト其系統ニ就テ」の中で、これ等三種を系統上共通の先祖型(これを便宜上マルコと表現している)からの突然変異体として対等に位置付けている。つまり、これ等三種は同じ祖先型から特定の形質に着眼して各々淘汰が行なわれ、独立的に分岐して生じたとしている。ここでいう先祖型とは、我が国の徳川期の資料に「卵虫」「朝鮮金魚」「丸子」等の名称で図示、記載をみる個体で、現在では存在せず、これ等三種より原初的な形態を成すものである。なお出雲部のナンキンが著述として扱われたのはこの論文が最初であり、本種が初めて中央に紹介されたわけである。

松井氏が本種を知られた事情については、筆者は書面で教示を受けている。それによれば、昭和4年9月28日松井氏が島根県庁の依頼で松江市において宍道湖水産会に対し養鰻につき講演された時、同会の役員として佐藤寛市氏(宍道町)が出席されており、同氏よりはじめてナンキンの話を聞かされ観察されている。その折り佐藤邸をたずねられたが、その時は同氏の池には、「オナガと称しワトウナイ型の金魚がいました」、また当時の状況として「僅かに数尾残存せしものとのこと」と記述されている。


 金魚の遺伝現象は興味深い調査対象である。金魚の形質の中には、目や鱗(うろこ)の形質にみる如く、単純明確な遺伝様式にしたがう形質もあるが、多くはより複雑であり、それに加えるに、この魚種の人為的な特異な形質には、環境因子の作用が大きく、尾鰭の形態への発生時の水温条件はその一例である。また遺伝学の調査材料としては、前提的に対象の形質の淘汰性、純系の度合いが大きな課題である。

ナンキンにおける鑑賞基準にもとずく長年の淘汰は、一面金魚遺伝学の材料として貴重な存在であり、その背鰭欠除性、肉瘤欠除性、独特の尾鰭の形態、背柱わん曲性、さらに不明確ながら白色を主体とした体色等は長年淘汰、純系化が進められて来た形質である。

しかし金魚は品種においても一腹からの子群をみる時、極めて変異に富むことは本種のふ化、育成の経験者であれば誰もが実感するところであり、大まかに変異をいえば先祖帰り的傾向である。しかし本種が固定化された一品種として子群の多くの個体がナンキン的形質の遺伝的特性を有することはいうまでもない。

だが、中には系統を原点までさかのぼって、祖先型とされる有背鰭、鮒尾のワキンとほぼ同一形質の個体が出現するのも、しばしば観察するところである。すべての観賞上の動植物がそうであるように、ナンキンも観賞者を満足させる個体は乏しい。品評会に出展されて優勝する個体などきわめて低い確率の所産であり、それとてもなかなか優品は出現しない。***↑page top↑***


ナンキンの観賞基準(ランチュウと比較して)
観賞基準に適合するナンキンの形態とはいかなるものか、現在全国的に飼育が盛んで島根県下でも愛好者が多い系統上近縁のランチュウと比較し、箇条書きで示してみる。

 (1) ナンキンでは頭部の表皮の肥厚発達がみられない。一方ランチュウでは良く肥厚発達し、肉瘤を生ずる。本来これ等マルコの系統は、程度の差はあれ、成長に伴ない、肉瘤形成の形質を有したもののようであるが、ナンキンはこの形質の除去の方向に淘汰を進めた品種であり、飼育管理も肉瘤発達を抑制するように行なう。
 
 (2) 頭部を上面からみる時、ナンキンでは、両眼の距離(目幅)が狭く、吻長(目先)が長い感覚のもの、つまり頭部は小さく吻端がとがるものが良いが、ランチュウでは頭骨が幅広く吻長は長く、しっかりした頭部を良しとする。
 
 (3) 両種ともに背鰭を欠除し、側面からみて背部はなめらかな彎曲を成すが、ランチュウの方が彎曲性が強い。これは外観のみならず背柱の形態についてもいえ、筆者がかつて各地より不用魚(死魚等)を収集し、調査した結果ではX線写真での観察において、ナンキンの標準個体では彎曲が肋骨付着部に限定するが、ランチュウでは全体的な彎曲を成す傾向が認められる。なお椎骨数、側線上鱗数はモード、平均値ともにナンキンが大である。
 
 (4) 尾鰭(尾筒)はナンキンが比較的長くまた、背部の彎曲性と関連するが尾柄の向きはナンキンでは下方への彎曲が軽く、ランチュウでは比較的強い。両種共に太くしっかりした尾柄を良しとする。
 
 (5) 頭胴部の体形を上面からみると、ナンキンでは尖った頭部と後方に次第に丸くつよく膨らむ腹部で、全体として極端な表現をすれば三角状をなすが、ランチュウでは全体が丸味のつよい小判状を成す。
 
 (6) 尾鰭は両種共に開き尾で、頭胴部と均整をもった形態であり、ランチュウは典型的な短尾、ナンキンはそれに比較し長い。ナンキンはその持ち味からして、必ず開き尾の中央が適度に割れたいわゆる四つ尾を淘汰選択するが、ランチュウでは中央が割れない三つ尾も容認する。
 
 (7) 体色は、ナンキンでは白色が主体で多白更紗とよぶものを好むが、理想的な体色は、老練な飼育者が本国錦と称する口先、目の縁、両鰓蓋、各鰭が赤く、かつ腹部より尾柄に赤色が巻上げ、頭頂部、背面が白色を成す体色、模様である。本種の赤一色等の個体に人工調色を行なう時は、一般にこのような体色に整える。ナンキンでは頭頂部の赤色を嫌う。これは感覚的に頭部が目立ち、また赤色の頭頂部肉瘤の形成を促進することを飼育者は経験しており、観賞上本種の持ち味を失うためである。ナンキンでは体型の良いものは、しばしば白一色の個体を飼育している。この点は他品種では一般には行なわないことであり、ナンキンには成魚になると、ランチュウに比して、運動能、飼料等の特性のためか独特の銀色光沢を示し、白一色も味わいのある体色としている。一方ランチュウは、ナンキンより一層からだの線の美しさを味わう品種であり、また小判をイメージとするため、赤一色の単色を基準としている。
 
 いまナンキンとランチュウの形態の比較を行なったが、もう一種オオサカランチュウを加え比較検討を行なってみると、感覚的、観賞的にナンキンはむしろオオサカランチュウに近いことがわかる。つまり彎曲性の強い背部、短縮した体型で太く短く尾柄などの点でオオサカランチュウは、ランチュウと近いが、更紗模様の体色、特別に肥厚、発達しない頭部など全体的に形態はオオサカランチュウとナンキンは好一対をなし、ランチュウはこれ等三種の中では異和感のする形態である。前述した如くオオサカランチュウはすでに存在しない。かつ本種につき知る人もすくなくなった。***↑page top↑***
 
 
オオサカランチュウと西川繁太郎氏
筆者はかつて本種の実際の飼育者で、また造詣が深い西川繁太郎氏(1892-)に会い本種につき話を聞いたことがある。同氏は奈良県大和郡山市にて代々金魚養殖を営む家柄であり、かつ絶滅した本種の作出、再現に務める篤志家である。同氏より談話および後日書面で、明確な記憶はないが、この前置きのもとで要約次の内容のことを聞いた。

関西一帯で古くから飼育、愛好されて来たオオサカランチュウも昭和に入って急激に飼育者が減少した。その主な原因は戦争の混乱と、東京からのランチュウの流行である。本種の最後の飼育者は、西川氏と和歌山市在住の岡崎某氏の二人であったが、二人により残存していた個体も終戦後間もなく昭和21、22年頃死滅した。

西川氏は本種の再現を思い立ち、昭和32年頃島根に来て当時健在で、ナンキン飼育者として著名であった大田億市氏(松江市)により当歳魚約20匹を入手し、翌年のランチュウとの交雑(赤色ナンキン雄×更紗ランチュウ雌)にはじまり、その過程では一度オオサカランチュウの尾鰭の形質(丸尾)を生むためにトサキンの入血も行なったが、原則として毎年の交雑を積み重ね、ほぼ本来の本種の形態の個体が出現するようになった、という。

なお筆者が西川氏を訪問したのは昭和42年8月であった。当時西川氏の飼育池には当歳魚がおり、ちょうど更紗のランチュウに幅広く張った尾鰭を付けた形態の魚群であった。また別池には作出の過程で使用された素赤ナンキン成魚が1匹いた。ことし4月、再度訪問したとき、成魚がおり、そのうち1匹は本種を再現した如き形態であり、二度とも筆者は撮影させてもらい参考にしている。また同氏からは新作出の個体を1匹わけていただき、飼育観察を行なったことがある。***↑page top↑***



オオサカランチュウの標準的形態
ナンキンに近い系統、形態を示す本来のオオサカランチュウとはどのような標準的形態をなすか、記述してみる。

まず頭部は上面からみると、両眼の距離(目幅)が広く、吻長(目先)が短い形状で、ナンキンとは感じが異なり、小さい頭部ではあるが、丸味のある点が特色である。肉瘤形成については、現在のランチュウほどには発達しなかったが、体形を乱さぬ程度に発達し、著述の中にも本種に関する「頭は顔巾広き獅子頭にて」とか「魚体合格(獅子頭にして丸形に肥満し丸金丸尾と伝ふ意なり)の魚なれば雄雌ニ尾にて五拾円は下らざるべし」の表現があり、また大和郡山市の金魚養殖場で会った一古老は、優品の本種は水泡状の肉瘤を立派に生じていた、と述べていた。胴部はナンキンより短縮、肥満し背部は強くわん曲を成し、尾柄は太く短い、頭部が短くまるいだけランチュウより一層丸味の強い短縮した頭胴部であり、尾鰭は横に幅広く平付け称し体軸に平衡に付着しており、また丸尾と称し切れ込みの少ない丸味のある形状を成している。

西川氏と並び本種に詳しい辻本元春氏(1900年-)によれば、前述の丸金の名称で特に本種は尾皿(尾柄と尾鰭の基部の境目の特に光沢性の強い鱗群)の形状を観賞上重視したとのことであった。
図示をみると典型的な三つ尾が多いが、古く「郡山金魚品評会」に用いられていた図示に、開き尾の中央が少し割れたいわゆる桜尾の個体が三つ尾の個体と一組で描かれていた。尾鰭に関し類似した丸尾の形態を成すトサキンでも三つ尾及び桜尾を選択するようである。***↑page top↑***


ナンキンとオオサカランチュウ
オオサカランチュウは尾鰭の形状から運動はしにくく、体を左右に動かして前進する様子はランチュウよりも運動は不自由であったようである。しり鰭数はナンキンでは考慮しないが本種では二枚を好んだ。体色はナンキンと同じく更紗模様を基準とし、ナンキンの標準体色である前述の『本国錦』は古くからオオサカランチュウの一種の標準体色でもある。本種ではナンキンよりも多赤更紗を容認し、たとえば『首下皆紅』の表現があり、また『頭紅』の表現で示す体色はナンキンでは容認しない。両種の体色を考察すると共通性、類縁が認められるが、ナンキンでは品種の持ち味を出すため、一層白色を強調した体色である。

既存の固定された品種から他の新たな品種を淘汰、作出しようとする作出者の頭の中には、当然淘汰の方針、新品種へのイメージがある。我が国の徳川期にはいかにも日本人的な発想として、小判状、力士的太味をもったランチュウや、名古屋地方において、金鯱の形状の尾鰭を成すジキンを生じた。
オオサカランチュウの優品にみる幅広く豊かな感じの形態はいかにも肥満型の化粧回しで飾った役力士の風格である。丸味の強い頭胴部や横に拡がった尾鰭、鮮やかな紅白の更紗模様など、むしろ感覚的にランチュウよりも力士的であり日本的である。

一方ナンキンについてはその持ち味として『品格のある浮世絵の世界の美女』などという。本種の細長い頭部や白色を主体とした体色はそのようなイメージの強調である。浮世絵の中には、相撲絵があり、種々描かれたが、たとえば勝川春潮(1777-?)は谷風を当時の代表的江戸美人難波屋おきたに配して何図かを描いたが、オオサカランチュウとナンキンを配するとそのような一つのまとまったイメージがあり、作出の過程でも両種は対称的なイメージで成されたように思える。オオサカランチュウは、文久二年(1862年)の品評会番付を有する由緒ある品種であるが、たとえば本種の作出がナンキンに先行したと仮定すれば、出雲部の一愛好家によって、関西で力士的太味のオオサカランチュウが存在するのであれば出雲部では対称的持ち味の形質のものを固定、作出してみよう、といった発想である。***↑page top↑***


(出雲ナンキン)現在とは違う観賞基準も存在
さきにナンキンの観賞基準を示したが、飼育家の中にはそれとは異なった基準をもつ人があり、この春故人となられた松江市の野津宗一氏(1885-1970)は独自の基準を伝え保持した人であった。

氏談によれば、氏は父子二代にわたり本種を飼育して来たが、父虎太郎氏(1864-1941)より伝えられ、また氏自身が明治年間に周囲で見たナンキンの観賞基準に基づく形状は、現在みる姿とは異なり、体全体がもっと丸味をおび背幅が広く腹部がもっと膨大しており、背部もわん曲が強い櫛形で尾部が太く短かった。また頭部は現在みる狐頭状の三角形でなく丸形であった。尾ひれは頭胴部と均整をとって短かったが、しかし必ずナンキンの特色として四つ尾を選別した。だが現在の個体にみる如く尾鰭が軟質でなく、しっかりとよく張って弾力性を有し遊泳の際先端の部分のみのしぼみがみられた。

例えれば現在のランチュウから肉瘤を除去した形態であった。現在一般の観賞基準による本種の形態は、古い年代では『ばってら』と表現し、つまりボート状という意味にて長刑で嫌った。但し体色は現在の基準と同一で多白更紗であり、頭部の赤色は嫌った、という。著者は野津氏より氏作出のナンキンを入手し、飼育していたが、確かに独自の形態がみられ、オオサカランチュウと現在一般のナンキンの中間的性格を有していた。***↑page top↑***


ナンキンの由来について(文献中心に)
このナンキンが、いつ頃、どこで、誰によって、如何なる系統から作出されたか、つまり起源由来について検討してみたい。
これらの事情を知るには、しっかりした資料、口伝が必要であるが、本種の場合残念ながら存在せずこの点オオサカランチュウと似ている。ランチュウが東京の初代石川亀吉氏(1831-1903)により品種として固定されたことは良く知られた事実である。但しランチュウの系統についても単純ではなく、松井氏もその著作「科学と趣味から見た金魚の研究」(1935)の中で、本種の祖先は「しみづらん」と「をかやまらん」の交配によると、という一口伝を紹介している。ナンキン(南京)という名称も独特である。

筆者は我が国における金魚に関する古美術文献資料の二大蒐集家、松井氏(京都市)並びに大和郡山市で古美術を扱われる石田貞雄氏をたずね、蒐集品を見学観察する機会をもったことがある。又両氏よりは後日書面で教示も受けたが維新前の資料にはナンキンという金魚名は発見出来ず、存在せぬとの事であった。出雲部における口伝の中に、「大和郡山地方の人がナンキンに飽き出雲人が物好きであったので出雲に移入された」というのがある。

筆者は大和郡山市における数人の有識者にこの点を尋ねてみたが、少なくとも、この地方にナンキンという金魚名は古くから全く存在しないことを知った。ただこの場合大和郡山市は古くからの産地であり口伝の意味が出雲部のナンキンそのものではなく、その祖先形が移入されていたとすれば、興味ある説である。

出雲部に隣接する米子市在住であった三好音次郎氏(1857-1933)が1903年(明治36年)に書いた「金魚問答」という著作がある。この著作では特にオオサカランチュウの体色、模様が詳しく、この点現存する最も充実したものである。この中に金魚名として南京の表現が出ており、古い資料の唯一の記載である。ただし出雲部のナンキンではなく、「其の他蘭鑄を南京と云いまたは朝鮮と云い尾長を和唐内と云う鳥取市の如きは、、」として鳥取市における南京という金魚名の存在を記載している。

筆者は鳥取市において現在最も金魚の事情に詳しい大山資安、神谷信治両氏に「南京」について尋ねた。両氏とも現在では飼育されていないが、長年のランチュウ愛好家である。それによれば両氏とも、前提的に「南京」という金魚における名所表現を知らないとのことだった。長年のランチュウ飼育の間においても鳥取市におけるナンキンの名称を用いたり聞いたりした経験はないという。特に大山氏(1920-)は現在柴犬に熱心であるが、ランチュウに詳しく、金魚飼育の動機としては、昭和4年同地の寺島稽人氏が東京の石川亀吉氏より(東京)ランチュウを移入し、それをみて本種に傾倒したとのことであり、同時代頃寺島氏は鳥取市における金魚の第一人者であり同氏に接触し指導をうけた、と言う。

又このランチュウ移入が鳥取市におけるオオサカランチュウからランチュウへの転換となりその変遷をみており、昭和7年鳥取新報社(今の日本海新聞の前身)が京都の金魚屋児玉氏を招いて、品評会を開催した時には、ランチュウとオオサカランチュウが混合していたと言う。大山、神谷両氏の経験からすれば、三好氏が記載する「南京」は鳥取地方に永続的に固着した表現ではなく、一時的な表現と推察される。金魚等にみる特定の場所に生じた名称は、一度固着すれば簡単に消失又は変更する性格のものではなく、大山氏が鳥取市で接触のあった寺島氏等は三好氏が記載した明治年間の事情、状況をよく把握していたと推察される一方三好氏の時代には出雲部におけるナンキンは明確に品種として飼育されており、この事実からすれば一つの推察として出雲部のナンキンの鳥取市への個体の移動、名称の伝達が考えられる。

なお三好氏が、鳥取市にみる「南京」の形態をも示したと思える個体を「普通の蘭鑄は図の如き姿の魚多し」として図示する形態は、ナンキンの変異の中で多く出現をみるもので、オオサカランチュウより変異として生じた形態とも考えられるものである。***↑page top↑***


金魚問答に記載された「南京」
米子市には三好氏を舅として仕えていた方が在住され、懐旧談として、三好氏による雇用者が明治年間まだ鉄道のない当時、米子、大阪間を比較的気軽な気持ちで山越え往復し金魚桶を天秤棒で担ぎ持ち帰った、とのことであった。「金魚問答」には出雲部のナンキンを暗示する表現もあり、「・・或国の蘭鑄は体格にのみ重きを置き斑の点は少しも頓着せぬとか又或る国にては狐頭(一般不可とするもの)にして胴長き(是も不可)もの流行するとか又は斑の点も唯一見美麗なるを可とすとかいふ如き少しも根の立たざる撰み方では・・」としている。この中の「狐頭にして胴長き」は当時の状況から出雲部のナンキン以外に該当するものがない。これが出雲部のナンキンとすれば、本種を記した最も古い資料である。

また、興味深いことに前述の野津宗一氏と三好氏が「狐頭」とか「胴長き」を批判する点で共通していることである。

マルコ
島根県下における金魚に関する古美術文献等資料を捜してみたが、筆者が見た唯一の品は松江市の岩橋厳氏所蔵の戦後関西から移入された柳里恭(1706-1758)筆の赤色マルコの掛軸である。大和郡山藩柳沢家の重臣であった、この画人はかなり金魚を描いていたようであるが、当時のマルコの形態を知る上で参考になる。

我が国に初めて金魚が渡来した年代については、1748年の安達喜之著「金魚養玩草」にみる「或老人云金魚は人王百五代後柏原院の文亀二年正月二十日はじめて泉州左海の津に渡り珍敷事なりとて其由来しるしたるものありけるにいづれの時には其書失ひ得りけり」の記述に従うのが一般的である。文亀二年とは1502年、足利末期にて中国は当時明国である。

ワキンと共にマルコが古く伝来したことは、中国では宣徳4年(1429年)の宣宗皇帝筆魚藻図に描かれた資料からも知れる如く古く出現しており、我が国の徳川期の古文献資料にはワキンと共にマルコが主に描かれている点からも推察されている。***↑page top↑***


金魚の歴史
我国で確認されている最も古い金魚を記した文献は、長崎学林から出版の日萄辞典(1603)によったパジェスの日仏辞典でコガネノウオの名称が認められる。また林通春は1612年本草綱目を和訓しマコガネウオと記している。マルコについて前記の安達喜之の金魚養玩草(1748)にみる肉瘤発達のない「卵蟲魚」、同じ作者による金魚秘決録(1749)にみる『「只の金魚」(ワキン)と「朝鮮金魚」(マルコ)』の交雑の記載、1764年の万芸間合袋の獅子頭の記載等が古い。金魚の伝来、出現と、それを扱った文献等資料の出現には年代的に差が生ずるのが自然的であろうし、また現時点では消失した資料も多かろう。

松井、石田両氏収集の古資料を観察したが、徳川期の浮世絵、陶器、絵本、衣裳、刀剣の鍔等の図示、模様、専門の著作、狂歌、川柳等の記述に広くマルコが認められる。その形態もさまざまであり、前提としてその写実性について考慮せねばならぬし、徳川末期に入るとオオサカランチュウや、ランチュウの作出を示す資料が認められるが、これら古資料にみるマルコの形態の多くは、より原初的、一般的であり、例えば錦絵の創始者鈴木春信(1724-1770)等が描く形態は、肉瘤の発達をみない一般刑の三つ尾、体色は赤色か更紗、長短さまざまの体型のマルコである。

つまり古資料にみるマルコは、ナンキンやオオサカランチュウの変異の中で出現をみる個体で淘汰性の少ない形態をなしている。時代は下るが明治に入って、大阪府誌(1902)は各地に「金鼈種に於いては今や二十有余種の多くあり」とし、金魚問答(1903)は蘭鑄について四種の地方型(東京、大阪、四国、広島)と普及型を記載している。

ツガルニシキ
また別の視点からすると、口伝として津軽地方の特産種ツガルニシキは明和年間(1764-1771)、一津軽藩士が京都から持ち帰り、当時の藩主津軽土佐守信明に献上したもので、文化年間(1804-1817)にはこの地で広く流行普及した、といいう。本種の形態は背鰭欠除性で、ランチュウとオランダシシガシラを交配して生じたシュウキンに酷似している。つまりこの時代にマルコの血の入った品種が、遠隔で寒冷な津軽地方に存在したわけである。なお本種は昭和20年7月の戦災で青森市の佐藤伝蔵氏等の飼育魚等を最後に絶滅した。***↑page top↑***

これらの事実をみると出雲部にも関西地方と藩や庶民の間の交流において、維新前かなり古くナンキンの祖先が移入されたのではないか、という推察が成り立つ。


ナンキンの由来について(不昧公の口伝)
出雲部において、ナンキンの出現は松江藩主松平不昧(1751-1818)の頃という口伝をよく聞く。これを実証する資料は認められないし、単純な性質の口伝と推察されるが、我国の金魚史をみると、年代的に無理はない。郷土史家石村春荘氏は著作(1964)の中で、慶応3年(1867)12月当時松江城内の密室に、天井のガラス張りの中の金魚を観賞する一室があった事実を記載されている。

野津宗一氏は次の如き懐旧談をされた。氏が年少(1885年生まれの氏が10才前後)の頃の記憶として、父に連れられ石橋町(松江市)の飼育者を訪ねたとき、ナンキンにおいて褐色を抑制した飼育が行なわれており、『三年黒』という表現で満2年以上も褐色しない個体をみた、といい、このような特殊な飼育者が存在していたことは、ナンキン飼育がかなり長い歴史を有するのではないかと感じたという。


ナンキン飼育 先人達の紹介
現存の子孫諸氏より直接話が聞け、確認できる古い飼育家としては、出雲市における小村庄蔵(1840-1908)、秦新六(1853-1906)、松江市における野津虎太郎(1864-1941)、岩橋清次郎(1866-1915)の4氏がある。特に小村、秦両氏は古い金魚業者であり一般金魚の扱いと共に明治年間、現在の観賞基準のナンキンを飼育養殖されていた。野津、岩崎両氏は趣味として野津型ナンキン、一般型ナンキンの愛好家であった。秦氏を同業として継がれた善次郎氏(1885-1963)は、ナンキン養殖家として知られた人であった。***↑page top↑***



三年黒
出雲部における二つの中心地、松江市と出雲市は、現在でもナンキン飼育に関してはあまり交流がない。これは本来、職人気質的、閉鎖的なナンキン飼育という趣味のためであるが、特に明治年間であれば交通の不便も加わり、交流は一層とぼしかったと推察される。この明治年間に共に中心地として松江市と出雲市はナンキン飼育が固着、安定した状態で行なわれており、さらに進展的に分派的な基準による飼育者も認められる。

松江において野津氏の言う『三年黒』が明治中期において特殊な飼育者の存在で認められること、出雲市における秦、小村両氏における業者の立場から扱われていることが、現時点からナンキン飼育に関し具体的に知り得る最も古い事柄であるが、ナンキンの場合オオサカランチュウにみる1862年の品評会番付、ランチュウにみる1871年の品評会番付が示すような示すような出現を推察する明確な資料は全く存在しないけれども、上記したナンキンに関する事実は一つの推察として、ランチュウさらにオオサカランチュウと同等の歴史を有する品種としてナンキンを位置し得る。


ナンキンの作出者、出現地は不明
ナンキンの作出者、出現地についても具体的、確定的なものは存在しない。かつて筆者は5,6人の諸氏に尋ねてみたが、作出者について全く不明であった。我国産の品種を検討してみると、明治以降出現した品種は、その作出者、系統等由来が明確であり、明治年間のショウナイキンギョ、シュンブンキン、シュウキン等がその例である。これらは作出法が交雑によるものであり、突然変異法と比較し、作出を明確化しやすい性質もあろうが、ナンキンの作出が比較的新しいものであれば、作出者なり、その存在地は具体的なものが存在するであろう。この点筆者は故人である老練な大田億市氏や秦善次郎氏の話が直接聞けなかったのは残念であるが、ただ記載に残る大田氏談は、ランチュウの祖先型としてのナンキン説、ナンキンの中国よりの渡来説にて、とにかくナンキンを古い由緒ある品種としており、また秦氏の意見は伝わっていない。古老によれば出雲部にも明治年間古くオオサカランチュウが入ったことがあり、またランチュウは大正3年(1914)年松江市の遠藤剛一氏により紹介されているが、オオサカランチュウは普及せず、また古くから現在まで、ナンキンがランチュウと共存し得たのは、やはり本種が古い伝統を有した品種のためであろう。***↑page top↑***


ナンキンの祖先型について
ナンキンの祖先型については、種々な説がある。たとえばオオサカランチュウとリュウキンの交雑説がある。その方法の意味は、ナンキンの狐頭状の頭部の形質はリュウキンから得たとしている。オオサカランチュウが存在しない今、筆者はナンキンとリュウキンの交雑を3例、知人の協力等も得て行ってみたが、その子魚は背部が乱れ完全な背鰭欠除個体は0〜2.0%のみであった。

この一つの遺伝現象からも知れる如く、この説には作出の発想自体飛躍があり、現在のナンキンが本質的にリュウキン的形質と異なることは、飼育者一般の客観的判断である。本種の先祖型は、遺伝、形態、歴史上年代、地理分布等総合的な視点から、我国の徳川期古資料にみるマルコかオオサカランチュウである。オオサカランチュウ説は、筆者の調査では出雲部において7人であり、本種の事情に詳しい古老に多かった。ただ前提的にいえることは、特異な形質を待たず原始的な形質のナンキンは遺伝的にみて、マルコ、オオサカランチュウ両種のいずれからでも、比較的作出しやすい性質を持っている点である。

オオサカランチュウ説の飼育家も明確な根拠によるものではなく、オオサカランチュウの歴史の古さ、産地が我国の金魚発生の中心地である完済であること、形態の類似をあげている。


人工調色について
また本来趣味上の存在の金魚のことであるため、本格的な調査、考察にによるものではなく、またこの地方にはマルコの故資料がなく、マルコの存在については考慮されていない。しかし『本国錦』等体色について両種に関連があるのは確かであるし、また人工調色に関しオオサカランチュウに関する金魚問答の「また薬品を用いて赤色を抜き取り白班を製造する法があります。しかしこの薬品はみだりに使用するものではありません」の姿勢はナンキンと同一である。
我国における金魚の人工調色は、愛知県のジキンで一般的に行われ、発達したもので、筆者も金魚養殖で知られる弥富地方の業者がマッチ棒をけずり鱗をはぐ準備をする様子を見たことがある。
ジキンの如く一般的に行ない、また複雑な方法もとらないが、ナンキンにおいても松江、宍道で行われ、他の地域でもごく少数ながら行なう飼育者が認められる。
方法は梅酢、食酢、食塩の塗布、または鱗を剥ぎ、色素胞を除去し、白色の体色をつくるわけである。人工調色に対する賛否につき、飼育者により見方が二分するのは、我国の金魚では両種のみであり、この点両種の関連が推察される。

筆者は前述した如く、両種は相撲絵の力士と美女の組み合わせのイメージで対照的に意識されて作出されたものであると推察している。***↑page top↑***

(推察)ナンキンはマルコから

ただナンキンの祖先型については、既存のオオサカランチュウではなく、もっと原始的な存在のマルコを材料とした可能性が大きいと考えている。その理由としては、

 (1) 野津氏が基準とする古い形態のナンキンは、一見オオサカランチュウに類似しているが、それは頭部尾部の短縮した丸味のつよい形状にとどまり、頭部の肉瘤欠除、白色主体の体色、さらに尾鰭はナンキン的特色である。とくに尾鰭は平付け丸尾のオオサカランチュウと対照的で短尾に属し、ランチュウの形状に近い。この基準のナンキンは、浮世絵等1800年代の古資料にきわめて近い形態の図示でみとめられ、作出に関しても特異な形質のオオサカランチュウよりはマルコと結びつけるのが素直である。一般の基準のナンキンも特に淘汰しない個体では、マルコに近い形態を示す。

 (2) この品種の名称は、産地、産地外を問わず『ナンキン』あるいは『イズモナンキン』である。我国における背鰭欠除性品種には、一般にランチュウの表現を古来用いているが、他に類を見ないナンキンの表現には、おそらく『中国のこの方面から渡来したという』『大へんめずらしい』の意の発想が考えられる。この名称は観賞基準により作出された本種に対してではなく、おそらく本種の祖先型に対する名称のように思える。もしオオサカランチュウからの作出であれば、このようないわば飛躍的な名称ではなく、イズモランチュウといった表現が連想される。筆者の調査では、この表現をまったく聞くことが出来ず、もしこの表現を使用する人が存在するとすれば、一時的または便宜的な使用と考えられる。1749年の古文献にはマルコを別名朝鮮金魚(朝鮮を経由して渡来した意味とされている)の表現を用いているが、ナンキンにおいても命名においてそれに似た発想があったように思われる。

 (3) オオサカランチュウからの出現とすれば年代も比較的新しく、ランチュウにおける石川家の如く作出者、作出等由来の状況につき、具体的な口伝等の存在が考えられるが、まったく産地において認められない。出現年代、系統、出現地にみるばく然とした口伝は、かえってこの品種の歴史の長さを推察させる。
 
 (4) 中国より渡来のマルコが古く各地に拡がり、これを素材に固定化した特色ある品種を作出しようとした動きがあった事は、口伝にみるランチュウの祖先型としての名古屋地方における肉瘤欠除の「しみづらん」、岡山地方における肉瘤発達の「おかやまらん」の存在、前述の大阪府誌の記載、系統上関連性の本州北端にみるツガルニシキの存在等で推察される。ナンキンはその所産であり、特異な形質で固定の飼育も容易でないオオサカランチュウを祖先型とするより、比較的古い年代に移入された原初的なマルコを祖先型とする方が妥当性があるように思える。
 
 オオサカランチュウの背鰭欠除の遺伝性に関する既存の資料と、ナンキンの遺伝性の比較を行なうと、両種には顕著な相違が認められる。しかしこの遺伝性は、ランチュウや中国産背鰭欠除品種を加え比較調査を行なうと、背部、背柱の彎曲度と関連があり、系統の考察には直接の資料とはならないが、ただ野津氏のナンキンはオオサカランチュウほど完全な背鰭欠除個体の出現率が低くないとのことであった。***↑page top↑***
 
日本と中国 金魚観の相違

 我国と中国の金魚観の相違はよく指摘されるところで、我国ではランチュウ趣味に典型をみる如く、一種を対象に多数の飼育者が長年優品作出に熱中する姿勢で、金魚の持ち味として品格、重厚さ、優美さを強調する。この点ナンキンもきわめて日本的な品種である。一方中国では金魚の種類についても流動的で、新しく珍種を作出しようとする姿勢が大である。最近の資料による金魚を見ても、持ち味の基本は我国と同じであろうが、我々の感覚では奇異な形態の品種が多い。従って中国においても原形的なマルコの如き形態を保持した品種は存在しないと考えられる。我国の一地方にこの種の金魚が飼育されていることは、学術上興味のあることであり、昭和31年の我国の国際遺伝学会には、金魚の一種としてナンキンも出展された。
 
ナンキンの飼育者数と飼育地(昭和43年3月末現在)
越冬開けの昭和43年3月末日現在、ナンキンの飼育者数は成魚及びコンクリート池所有者の条件にて出雲部で45人、県外で3人の計48人であった。石見部については事情に詳しい知人等に当たってみたが、もっぱらランチュウが対象で本種の飼育は行なわぬとの事であった。特殊な趣味として、現在でも飼育者数は安定してほぼ当時と同じであり、県内では出雲、平田、松江、安来の4市、簸川、飯石、大原、能義の4郡で飼育され、その中心地は古くから大社、宍道、松江である。

第二次大戦後の大田億市氏の功績
本種が現在まで存続したのは、戦争の影響が比較的少なかった事と、熱心な愛好家がいつの時代にも存在した事による。オオサカランチュウや、ツガルニシキが絶滅した終戦前後にはさすがに本種も激減したが、中国より復員した大田億市氏(1895-1965)が再興をはかり、婦人談によれば簸川地方に残存していた数尾をもとに繁殖されたという。現在の本種の基盤の一つは氏の繁殖によっている。

ナンキン愛好家の紹介(昭和45年当時)
昭和30年前後、筆者が子供の頃は、本種の第1の餌イトミミズが近辺でふんだんに採取出来たが、最近は生息地のミゾ等に整備、種々薬剤の散布で減少した。地域によっては熱心家が数キロ、数十キロの距離を採集に出る時代となったし、全国的にランチュウが隆盛であるが、本種が愛好、保存されているのは、各地の見識ある愛好家、中和夫(大社)、岸本正義(出雲)、佐藤邦夫(宍道、但し現在は福岡在)、岩橋巌(松江)等諸氏の理解、尽力によっている。現存する日本産出の品種の中でも、伝統、形質の淘汰性において、本種はランチュウ、ジキン、トサキンと並び意義ある品種であり、学術的にも興味深い存在である。出雲部の一風物として将来とも温存したいものである。***↑page top↑***

***本文終わり

(この論文の著作権は中尾英一氏にあります。論文内容の無断転載・引用は禁止します)



Spcial Thanks:Mr.YAMANE
トップページへ
御意見、御感想おまちしております。
romsan@yahoo.co.jp (C)2003ロム